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『英夷新聞』写本について



※本稿は、2014年12月6日(土)に日本新聞博物館(横浜市)で行われた新聞資料研究会で配布した資料の一部を、HP掲載用に修正したものです。




 2014年2月、福岡県内の古書店で、『英夷新聞』なる新聞の「写本」が売りに出されているのを発見した。

古書店の情報によれば、以下の通りである。


「・英夷新聞 (新聞譯書) (写本)

・約24×16糎 本文始り1860年(英仏北京ヲ平略セシ事・俘囚ヲ残暴之取扱ヒニ及シ事)・・・等 文久頃  少汚  11丁

・江戸後期頃写」


 『英夷新聞』、聞いたことのない名前である。また、1860年とは、日本では万延元年にあたる。これを額面通りにとってしまうと、1862年刊の『官板バタヒヤ新聞』より数年遡ってしまうことになるのだが、日本で発行された翻刻新聞それ自体、記事の内容・中国での出版年と、日本で刊行された年とは、年単位のズレがあるようなので(なお、2014年2月に新聞各紙で報道された、京都・山本読書室より発見された本邦最初の新聞『新聞紙の写し』も、松田清(2013)によれば、全体のうち海外情報に関する部分についての内容は、このアロー戦争に関するものであり、文章に『官板中外新報』第十二号との類似性があるという。)、今回も何かの新聞の翻訳のような感じであるし、そういうものなのかもしれない、と思って買ってみた。

 買って手にして見たのは良いものの、史料がない。『日本初期新聞全集』(ぺりかん社)をはじめ、いくつかの文献にあたってはみたが、『英夷新聞』という名前の新聞は見当たらない。

 そもそも、『英夷新聞』というのが、そういう題号の新聞だったのか、それとも特定の新聞名ではなく「イギリスの新聞」という程度の意味なのか、そこからして不明である。『英夷』の「英」はイギリスの意であるとして、「夷」という字には「異民族」「野蛮人」というような意味がある。「英夷」という言葉自体はその当時中国にはあり、アヘン戦争後の1842年締結の南京条約において、英国を「英夷」と呼んではならないということをわざわざ明文化した例もある。日本においても「英夷」の語は『海外新話』をはじめ、当時の知識人の書簡や日記などに散見されている。いずれにせよ、「英夷」という言葉は、イギリスに対する蔑称のようなものである。

 なお、入手した『英夷新聞』の最後のページには、「右ポルトガルコンシュル上海より入手せし新聞□□□(記抜萃?) 翻譯仕候以上」とある。そこから、この新聞が中国由来の新聞であることを想定し、『中華百年報刊大系 : 1815-2003』(中国报业协会・国期刊协会主编、華夏出版社、2004年)などにもあたってみたが、該当しそうな新聞は見当たらなかった。前述の「コンシュル」とは、“consul”=「領事」のことであると思われ、ポルトガルの外交官が上海から日本に持ち込んだ新聞(の一部)を、誰かが翻訳したもの、と考えられる。

 新聞の内容は、冒頭の古書店の書誌情報のように、北京の様子で始まるのだが、1860年といえば、中国ではアロー戦争(1856~1860年。第二次アヘン戦争とも呼ばれる。)の終結の年であり、新聞の内容も同戦争の最終局面について書かれている様子である。清国の外国人排斥運動の中で起こったアロー号事件(1856年10月8日)を機に清国とイギリス・フランスとの間で起こった同戦争は1860年10~11月にかけて結ばれた北京条約により終結。これにより清国の欧米列強による半植民地化が決定的となった。『英夷新聞』は、その最終局面、そして英仏との条約の内容について、(一部は他の新聞=どの新聞かは不明=からの転載のような形で)書いている。

 表紙には、鉛筆のようなもので後から書き加えられたと思しき、「一八六〇年 支那咸豊十年(日本文久元年)」という記述がある。文久元年=1861年であるから、日本にもたらされた年を指すのか。

 立命館大学図書館のレファレンスを通じて調べてもらったところ、同名の資料を所蔵している機関はほとんど無いようで、唯一、宮内庁の図書寮(ずしょりょう)のみが、『英夷新聞』というタイトルの資料を所蔵していることがわかった。

 2014年9月に宮内庁図書寮に同資料の複写請求をし、マイクロポジフィルムの形で資料の複製を入手した。それを立命館大学図書館の設備(マイクロリーダー)を利用して紙焼き作業・内容の検討を少しずつ進めている、というのが現在の状況である。

 複製を入手してわかったことだが、宮内庁所蔵の『英夷新聞』は全部で8冊あり、表紙が判読不明な一号を除いて、それぞれに「貳」~「捌」の号数が振られている。何らかの意思をもって、継続刊行されていたものということだろうか。

 問題は刊行時期で、書誌情報となりそうなものは今のところ見つかっていないものの、内容は天保11(1840)年~弘化2(1845)年までの年号と、情報が掲載されており、私が購入した『英夷新聞』とは、15年以上もの開きがある。なお、1840年代まで遡ってしまうと、ここでいう「新聞」というものが、私たちが認識している「新聞」(『官板バタヒヤ新聞』や『官板中外新報』などの冊子型新聞も含めて)と、同様のものと見て良いのかどうか、という点にも疑問が生じる。

 宮内庁所蔵本は、頁数もかなりの量があり、マイクロフィルムのコマ数で見ても、全部で少なくとも150~200コマはあると思われる(そのため、紙焼き作業も資金的な事情から難航中)。その中で、第二号の最初は「寧波新聞」ではじまるし、阿蘭陀風説書や別段風説書から引いてきたと思しき記述も見られる(当時のオランダ商館長(カピタン)Eduard Grandissonらしき名前も見られる)。このほか、中国の漢詩を取り上げていたり、アヘン戦争(1840~1842年)の戦況、琉球王国に関する情報なども掲載されている。

宮内庁所蔵本と小林所蔵本との間の10数年の間に、日本は鎖国体制をやめて開国し、日本国内の状況は大きく変わった。小林所蔵本には、宮内庁所蔵本にでてくるような風説書は登場しない。開国によって、外国船が出入りするようになり、情報源もそれまでの風説書から新聞に変わったのかもしれない。


 以上、本年2月に発見して以来、どこから手をつけたらよいものか分らないままいくつかあたっては見たものの、『英夷新聞』の正体がどうもよくわからない。何か情報がありましたら是非ともご教示ください。



参考文献:

奥田尚(2006)「『海外新話』の南京条約」『追手門学院大学文学部紀要』42、pp.204-218

嶋崎さや香(2008)「幕末から明治初期における新聞受容--竹川竹斎と射和村」『リテラシー史研究』1、pp.1-13

松田清(2013)「京都で発行された本邦最初の新聞について」京都外国語大学機関誌編集委員会, 京都外国語短期大学機関誌編集委員会編『研究論叢』82、pp.342-324

北根豊編『日本初期新聞全集』ぺりかん社

中国报业协会・国期刊协会主编(2004)『中華百年報刊大系:1815-2003』華夏出版社



写真:『英夷新聞』小林蔵書本の一部。

 ※宮内庁図書寮所蔵本の写真は掲載できません。

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